渦巻く知識

船を漕ぐ者 第五部

私にはまだ海の果てが見えない。
辿り着く岸辺がどこかにあるはずなのに、幾千もの波を越えて、尚も海は広がっている。 船を見ると装飾が剥げている。
煌びやかに彩られていたはずの船体は鉛色の肌を所々から覗かせている。
櫂は整った形であったはずなのに、先の方は削れていた。
荒波を打ち砕き航海した記憶がまざまざと思い起こされた。
ふと見上げると、私の船には二階ができてきた。
心なしか船底も広くなっている。
かつての急拵えの底板など、どこにも見当たらなかった。
いつのまにだろう。
漣が寄せては返して、少しずつ私の船を蝕んでいくのだとばかり思っていたが、この寄せる波は決して腐食ばかりの作用を持つわけではないようだった。

海とはなんだろう。
私は果たしてこの船でどこを漕いでいるのだろう。
それは確かに大海原であったが、その海を構築するものは単に海水だけではなさそうである。
水を掬って口に含んでみる。
塩っ辛い味と言いようのない臭いが鼻に充満して私は水を吐き捨てる。
口の中を小さな針で刺されているような痺れが残っている。
たしかにこれは海水であった。
けれどもなぜ海水に浸されて、この船は大きくなったのか。
もちろん腐食した部分もある。
塗装は剥がれ、確か太陽の形をした飾りがあったが、それもいつのまにかなくなっている。
けれども船体は大きく、二階までできている。
旗竿は折れている。

船を進めていくと、大きな他の船にであった。
カーフェリーのような大きさで、その船体はゆうに私の乗る船の十倍はある。
けれどもその船に乗っているのは一人であった。
例の如く顔は見えない。彼は手を振っていた。
「おおい!おおい!」
彼に見えるように私も手を振った。
「やあ、また会いましたね」
彼に言われて私は訝しんだ。
こんな船に出会ったのは初めてだが、果たして彼のことは知らない。
「申し訳ないのですが、記憶にありません。どちらさまでしょうか」
私が尋ねると、彼は驚いた様子で
「やあやあ随分と昔のことですからね、あなたが私を呼んでくれたのは。
あの時は私ももちっと小さい船でしたが、あなたはもっと小さい船でした。すこし真ん中の凹んだ板に乗っているようだった。あの頃を覚えておいでですかな?」
彼はかつて知った口を聞いていたが、私には皆目見当もつかなかった。
「全然覚えていない。人違いではないですか?」
私が申し訳なく言うと、彼は満面の笑みで
「それはない。たしかにあなたでしたよ。遠い昔なので忘れておいででしょう。
けれどもあなたとは間違いなくお会いしました。」
彼のその自信に、私は自分の記憶力のなさを恥じた。
船体の側面から塗装がべりりと言う音を立てて剥がれ落ちた。
「さあ私はもういかなくては、あなたの航海も無事にどこかにたどり着きますように」
彼はそう言うと船に戻っていき、汽笛を鳴らして去っていった。
轍は残らなかった。
彼は誰なのだろう。そして私は一体どこへ向かうのだろう。